日本画の屏風の場合、季節の変化をつけることが多いのですが、その場合向かって右から左へ季節が移り変わっていきます。屏風絵は画集などでは完全に広げた状態で載っていることが多いですが、そもそも屏風は折った状態で鑑賞することを前提で制作されており、折ることで絵に立体感が生まれ、さらに正面から見るだけでなく左右に視点を変えることで絵に変化が生まれ、鑑賞者が様々に楽しめるように工夫されております。安土桃山時代の風俗画などに描かれた屏風を見ると、周囲を丸く囲い込んだり不規則に折った状態で設置されたりと、その時の必要に応じて自由に取り回して使ったことがわかります。
屏風絵は古代から近世にかけて、唐絵や、日本画でも大和絵、水墨画、文人画など多くの屏風絵が描かれた。また安土桃山時代から江戸時代にかけて城郭には必ずといっていいほど屏風が置かれ、それによって屏風絵は芸術としてその地位を高めていった。その時代の有名な絵師としては、狩野永徳らが挙げられる。
奈良・平安時代は一隻六扇(六曲)が一般的で、各扇を革紐などでつなぎ、一扇ごとに縁をつけていた。鎌倉時代に紙製の蝶番が案出され、現在のように前後に開閉可能になった。また、縁も二扇ごと、更に一隻全体にめぐらされる様になり、屏風全体が一続きとなる大画面が実現した。14世紀前半代に二隻(一双)を単位とする、六曲一双形式が定型となる。江戸時代に入ると二曲や八曲の屏風も出現した。
秋田杉の基本的な構造は、主に矩形の木枠の骨格に用紙または用布を貼ったもので、この細長いパネルを一扇といい、向かって右から第一扇、第二扇と数える。これを接続したものが屏風の一単位、一隻(一畳、一帖)である。向かって右側の屏風を右隻、左側の屏風を左隻と呼ぶ。画面周囲には縁(ふち)がめぐらされる。
現存のものでは、8世紀に作られたもの『鳥毛立女屏風』が正倉院に保管されています。それにまた中世では輸出品として珍重され、外国への贈答品としても使われていました。遣明船の場合だと、必ず金屏風三双を送る習わしだったですし、それに永享5年(1433年)遣明船の朝貢品予算リストである「渡唐御荷物色々御要脚」には「御屏風 参双 代百五貫文」と計上され、天文10年(1541年)大内義隆が狩野元信に制作依頼した発注書では「一双分代。三十五貫文」と明記されていましたし、それに近世では安土桃山時代から江戸時代にかけ贅を尽くした金地のきらびやかな屏風がたくさん作られたということです。
中国の漢時代には、すでに風よけの道具として存在していました。歴史って本当におくが深いですよね。。それでまあ魏、晋、南北朝時代には、王族の贅沢な装飾品へと変化していったのですね。日本における最も古い屏風は、686年に朝鮮半島の新羅より献上されたものだといわれております。
屏風とは、それはおもに部屋の仕切り、そして装飾に用いる家具のことを言います。また、その小さなふすまのようなものを数枚つなぎ合わせて、折りたためるようにしてあります。「風を屏(ふせ)ぐ」という言葉に由来しているのです。
内田木工所
秋田杉の衝立、屏風、組子細工の製作、販売。
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